三代王権を訪ねて

私は第二王亨進様と共に歩むものです、しかしブログの内容は聖殿教会(サンクチュアリ教会)とは関係ありません、私の私案です。

【一神教から多神教に】

京都の宮津にある籠神社(元、伊勢神社)の宮司さんのによりますと神道はもともと一神教だったと言われています。
 
伏見稲荷大社稲荷大神秘文に「それ神は唯一にして御形なしーーー」と書かれています、伏見稲荷大社でも一神教を主張していました。
 
明治時代、現在、神道研究者に神道は元々、一神教だったと主張する人達がいます。
 
その他の資料を総合的に考察してみると、「神道は元々、一神教だった」という結論に達します。
 
しかし現在の神道多神教です、神道一神教からどのように多神教に変わったのかを考えてみます
 
紀元前、紀元後、日本に忌部氏、卜部氏、物部氏、中臣氏、秦氏、少なくともユダヤ5氏族が渡ってきたと思われます。その中で秦氏だけがキリスト教に改宗し東方キリスト教徒として来日しました。
 
ユダヤ教徒は多民族にユダヤ教の伝道をしません。
 
しかしキリスト教徒(イエス様の弟子達)となったユダヤ人はアジアにおいて積極的にキリスト教道し幾つかの国、多くの民がキリスト教徒となりました。
 
ですので東方キリスト教徒である秦氏も日本でキリスト教伝道する為に来日したのでしょう。それが初期神道であり、初期神道は東方キリスト教だと思われます。
 
東方キリスト教徒である秦氏の本拠地はいつからかは分りませんが飛鳥時代には山背国(現、
 
京都市)の太秦(うずまさ)にありました。
 
太秦ーーーーー中国の史書ではローマを大秦と書きました。太秦は大秦(キリスト教国ローマ)からつけられたのでしょう。秦氏は自分たちがいる所はキリスト教国ローマ(大秦、太秦)であり、 ここから日本全土にキリスト教を広めて行こうという決意があったのでしょう。
 
 
うずまさーー「うずまさ」の語源はアラム語の「うしゅ(いしゅ)、ましゃ(救い主イエス)」からきている。地名を「うしゅ(いしゅ)、ましゃ(救い主イエス)」と付けたのは、東方キリスト教徒、秦氏は常にイエス様を想い、イエス様と共にいたのでしょう。
 
ローマは当初キリスト教徒を迫害していたが、380年、キリスト教を国教に変えました。日本ではローマのキリスト教国化を知った秦氏日本もキリスト教国にしたいという熱い想いで自分たちが住んでいる所をキリスト教国ローマ(大秦、太秦)を地名にしました。
 
そして、秦氏は日本各地で積極的にキリスト教伝道活動をしていたのでしょう。こうした秦氏伝道活動が初期神道を形成されていったと思います
 
東方キリスト教徒である秦氏の日本伝道の足跡
 
 
東方キリスト教徒はアジア各地で文字を持たない民族を伝道する時は、その民族の言語にあっ
た文字を作り、その文字を教え、聖書をその創作した文字で書きキリスト教伝道していました。
 
 
 そして日本では平安時代読み書きは漢字しかなく一般人には難しかったので秦氏表音文字 「ひらがな」を創りキリスト教伝道のツールに使おうとしたのでしょう。
 
 
そして、いろは歌には「とかなくてしするイエス(罪なく死すイエス)」という暗号が挿入されていま
す。
 
2、日本のペトログラフ
 
日本のペトログラフ(岩に刻みこまれた絵や文字)の中には東方キリスト教徒がアジア、各地で
創ったのではないかという文字があります
 
その中の一つに韓国のハングル文字と思われる文字が日本のペトログラフに、ありハングル文字
東方キリスト教徒が創った文字の可能性ありです
 
 
3、日本各地に東方キリスト教徒の伝道の足跡
 
 
青森のイエス様伝説、石川県のモーセの墓伝説、群馬県の羊太夫の伝説は東方キリスト教
の伝道の足跡です。
 
4,奈良時代、東方キリスト教徒は皇室を伝道していた
 
東方キリスト教徒はアジア各地で伝道する時、無料で薬を与えていました。奈良時代、光明
皇后はキリスト教伝道受け、その影響で貧しい人に医療を施す施設である「施薬院」を造りま
した。
 
奈良時代の仏教は貴族の為であり貧しい人々には目をむけられなかったのです。
京都の泉涌寺にも悲田院があります。
 
5、日本三大祭り、京都の祇園祭ユダヤキリスト教の影響をうかがえる
 
①京都の祇園祭イスラエルのシオン祭は共に7月に一か月行われる
 
祇園ギオン)とシオンと音が似ている
 
祇園祭山鉾巡行7月17日はノアの箱舟がアララテ山に到着した日
 
祇園祭で配われる、お札に「蘇民将来」と書かれています。この「蘇民将来」を家に貼れば難が過ぎて行くそうです、ユダヤの過ぎ越の祭と同じ考えです。
 
 
 6,秦氏系神社である稲荷神社は元々はイエス教会だった
 
稲荷(いなり)の語源は「INRI」でしょう。エス様が十字架にかけられた時、十字架の上部に
 
「INRI」(意味は、イスラエル、ナザレ、王、イエス)と書かれた板を貼られました。
 
昔、日本には「N、ん」の音が無かった(古事記日本書紀万葉集「ん」無し)そして、外国
 
語の詰まり音に母音を付け発音することがある(例、GODをGODO,ゴッド「INRI」の「N」詰まり
 
音に母音「A」を付け「INARI」「いなり」と発音したのでしょう。
 
ですから「いなり神社」は元々は「十字架にかかった神の子イエス教会」だったのです。
 
八幡神社も秦系神社ですので、稲荷神社、八幡神社は元々はキリスト教伝道の拠点で教会
 
のような所ではなかったかと思います。
 
7、山伏とユダヤ人修行者
 
山伏とユダヤ人修行者の姿がそっくりです、特に額に付けた小さな箱(山伏はトキン、ユダヤ
 
修業者はフィラクリティと言います)に山伏は経文、ユダヤ人修業者は聖句を書いた紙が入れて
 
います。
 
山伏の始まりは日本各地に修行、伝道に出かけた東方キリスト教徒(ユダヤ人)の姿だったので
 
しょう。
 
8,イエス様と聖徳太子伝説の類似性を調べてみます
 
①馬小屋(イエス様は馬小屋で産まれ。聖徳太子の母である穴穂部間人は馬小屋前で産気
 
づき聖徳太子を産みんだ。聖徳太子の正式名は厩戸(馬小屋)皇子とつけられた)
 
聖徳太子聖徳太子の意味は「聖なる徳のある次期王様」となる、イエス様も神様の息子
 
で、この世の王の王になられる予定の方だった、イエス様を漢字で表現すると「聖徳太子」です)
 
③母が処女で産む(イエス様も聖徳太子も母親は処女で産んだことになっている)
 
④大工の神様(イエス様は大工の職人でもある、日本の大工組合では聖徳太子を大工の神
 
様と祀っています)
 
法隆寺の救世(メシア)観音菩薩法隆寺の救世観音菩薩(救世主)のモデルは聖徳太子
 
(イエス様)と言われている、イエス様は救世主です)
 
⑥十人の話を聞く聖徳太子は十人の話しを聞きわけることができる、神様は多くの人の祈りを
 
同時に聞いて下さる、神様の息子のイエス様も同じ能力があると考えたのでしょう)
 
⑦京都、太秦にある蚕ノ社の三柱鳥居キリスト教の神様、イエス様、聖霊の三位一体の形
 
状化したものです。
 
 
 
1~8以外にも東方キリスト教徒、秦氏キリスト教伝道の足跡が日本の各地に残っていると
思います。日本には東方キリスト教徒の神様、イエス様を愛した心情が浸み込んでいるのす。
 
 
私は確率論を勉強していませんがイエス様と聖徳太子の偶然類似する確率は、ほぼ0%にな
るのではないでしょうか。
 
エス様、聖書を知っていないと聖徳太子伝説は書けないと思います、藤原不比等を中心に
古事記日本書紀が編纂された時、聖徳太子伝説にキリスト教徒が参加したのでしょう。
 
 
ここで藤原不比等秦氏東方キリスト教)の接触が確認できます。
 
藤原氏は日本を治めるには一神教より多神教が良いと考えたのでしょう。
藤原氏多神教神道への想いです。
 
 
平安時代藤原氏は自分たちが陥れた菅原道真の怨霊を恐れ、菅原道真の怨霊を鎮めるた
め多くの天満宮を造りました。
 
藤原氏は亡くなった人が現世、生きている人に影響を与えることを信じていました(全国にある御霊神社もそういう考えで造られました
 
 
では藤原氏はイエス様についてどう思っていたのでしょう、
 
 
エス様が十字架にかかったのちイエス様が復活し弟子たちがローマで永年、迫害を受けながら
もローマをキリスト教国家にしたのを藤原氏秦氏から聞き大きな衝撃を受けて危機感を感じ
たことでしょう。
 
 
藤原氏(来日ナフタリ族)は日本でようやく権力をつかんだのに、その権力をイエス様の復活で
奪われたくなかったのでしょう。
 
藤原不比等聖徳太子を通してイエス様を賛美しながらも日本でイエス様の復活を防ぐことに
したと思います。
 
奈良にある法隆寺聖徳太子に関わる寺ですが、その法隆寺にある救世観音菩薩像のモデ
ルは聖徳太子と言われています(法隆寺の救世観音菩薩聖徳太子=イエス
 
聖徳太子と関わりの深い法隆寺にある聖徳太子、イエス様の象徴像である救世観音菩薩
の後頭部に鉄杭をうちつけられています。これはイエス様が復活しないようにしたのではないかと
思います。
 
そして約450メートルの布で救世観音菩薩像をグルグル巻き、ミイラ状態にしたのは藤原氏でしょう。
 
藤原不比等は妻の名義で法隆寺に多額の支援をしています、法隆寺に影響力を持ち救世観
音菩薩に工作しイエス様の復活を抑え込もうとしたのでしょう。法隆寺の救世観音菩薩像は
「イエス様復活防止装置」なのでしょう。
 
藤原氏は政権安定のため秦氏との友好関係を維持していくのですが秦氏法隆寺の救世観
音菩薩像の存在を知らず藤原氏の「イエス様復活防止」の考えは分からなかったのでしょう
 
 
 
奈良から長岡京への遷都は秦氏の日本キリスト教国建国の歩みだったかも。
 
長岡京への遷都計画の責任者は藤原種継でした。藤原種継父は藤原清成。母は秦朝元
の娘)の母は秦氏系の女性で、長岡京秦氏の支配地です。
 
わたしの想像ですが、藤原種継秦氏の母から教育を受けキリスト教信者だったのでしょう。
 
そして長岡京秦氏キリスト教支配地)で天皇キリスト教を教え(藤原種継が中心に)日本
全土をキリスト教化し日本をキリスト国にする計画があったのではないかと思います。
 
しかし多神教派、藤原氏藤原種継を暗殺し日本キリスト教国計画は破綻してしまいまし
た。
歴史研究家の間で藤原種継が、なぜ暗殺されたかというのは、まだ謎のままです。
 
奈良時代後半、藤原氏秦氏と婚姻関係を結び秦氏の助けを受けながらも秦氏の「キリスト
教国、日本」を拒否したのです。
 
そして奈良時代、終盤期に天皇が天武系(称徳天皇)から天智系(光仁天皇桓武天皇)に
変わりました。天皇位奪還は天智系の人達の宿願でそれに協力したのが藤原氏多神教派)
です。
 
天智系天皇、樹立に協力した藤原氏は朝廷内で主導権を奪い日本に国軍を無くし(東北制
圧軍は除く)都を山背国(現、京都市)へ遷都したのでしょう。こうして日本は多神教国になり
ました。
 
上記の内容は詳しい説明が必要なのですけど、かなりの長文になりますので省略します。
 
平安時代、以降、藤原氏は軍事力を奪われた天皇と婚姻関係を結び続け第二の立場で日
本を見守っていきます。
 
私は日本は神様の娘になることを願います。
 
日本には神様、イエス様を愛した心情が浸み込んでいるのです
忘れないでください。