天智天皇(百済人)の息子、大友皇子は天武天皇によって殺されました大友皇子の墓は大津の三井寺にあり、墓の目の前には百済を滅ぼした新羅から持って来られた新羅明神が大友皇子を見張るように置かれています。
770年、天武系天皇(称徳天皇)が途切れた後、天智天皇系の光仁天皇が即位しました。
772年、光仁天皇の井上皇后(天武系)と息子を幽閉し暗殺します
781年、光仁天皇と百済の避難民の子孫の高野新笠の間に産まれた桓武天皇が即位
天武系の妻である井上皇后と息子を殺しれでも百済の女性との間に産まれた皇子を後継者にするということは天智天皇系の光仁天皇が百済人だからです。
桓武天皇が日本で初めて郊祀を行いました。
この「郊祀」を行うということは以前の天皇と我々(天智天皇系)とは血統が違うことを意味しています。
【郊祀とは】
王朝が滅び新たな王朝の最初の王が天帝から王位を頂く儀式
4,憎き武烈王をののしる
そして、天皇家の正史は日本書紀であり、古事記は見ないそうです。
「人の爪を抜いて、芋を掘らせた」
「人を木に登らせて、弓で射落として笑った」
「妊婦の腹を裂いて、その胎児を見た」
「人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺し喜んだ」
「女を裸にして平板に座らせ、馬を引き出して女の面前で馬を交尾させた。女性器を調べ潤っている者は殺し、潤っていない者は奴隷として召し上げた。これが楽しみであった」
百済人にとって武烈王は憎き人物
日本書紀に武烈王(武烈天皇)の悪行を書くことにより怨みを晴らしたのです
5,百済をクダラと読みますね
「本家」を韓国語でクンジベ(大きな家)と言います
「本国」になりましたら国は韓国語ではナラですので「本国」はクンナラになります。
クンナラ⇒クダラと音変化したのでしょう。
ですから朝廷内では百済を「本国」と呼んでいたのです