三代王権を訪ねて

私は第二王亨進様と共に歩むものです、しかしブログの内容は聖殿教会(サンクチュアリ教会)とは関係ありません、私の私案です。

天皇家は百済人

1,百済系皇子は新羅明神に監視されています

天智天皇百済人)の息子、大友皇子天武天皇によって殺されました大友皇子の墓は大津の三井寺にあり、墓の目の前には百済を滅ぼした新羅から持って来られた新羅明神大友皇子を見張るように置かれています。

 

2,光仁天皇 (百済系)は天武系の血筋をすべて排除

770年、天武系天皇称徳天皇)が途切れた後、天智天皇系の光仁天皇が即位しました。

772年、光仁天皇の井上皇后(天武系)と息子を幽閉し暗殺します

781年、光仁天皇百済の避難民の子孫の高野新笠の間に産まれた桓武天皇が即位

天武系の妻である井上皇后と息子を殺しれでも百済の女性との間に産まれた皇子を後継者にするということは天智天皇系の光仁天皇百済人だからです。

 

3,百済天皇の復活宣言

桓武天皇は郊祀を百済王族支配地(大阪、交野)で行いました。

桓武天皇が日本で初めて郊祀を行いました。

この「郊祀」を行うということは以前の天皇と我々(天智天皇系)とは血統が違うことを意味しています。

【郊祀とは】

王朝が滅び新たな王朝の最初の王が天帝から王位を頂く儀式

 

4,憎き武烈王をののしる

日本書紀は親百済的に書かれてと言われています

そして、天皇家の正史は日本書紀であり、古事記は見ないそうです。

日本書紀武烈天皇の悪行が書かれています。紹介します。

人の爪を抜いて、芋を掘らせた」

「人を木に登らせて、弓で射落として笑った」

「妊婦の腹を裂いて、その胎児を見た」

「人を池のに入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺し喜んだ」

「女を裸にして平板に座らせ、馬を引き出して女の面前で馬を交尾させた。女性器を調べ潤っている者は殺し、潤っていない者は奴隷として召し上げた。これが楽しみであった」

百済を滅ぼしたのは新羅の武烈王です

百済人にとって武烈王は憎き人物

日本書紀に武烈王(武烈天皇)の悪行を書くことにより怨みを晴らしたのです

ちなみに古事記には武烈天皇の悪行は書いてありません。

 

5,百済をクダラと読みますね

「本家」を韓国語でクンジベ(大きな家)と言います

「本国」になりましたら国は韓国語ではナラですので「本国」はクンナラになります。

クンナラクダラと音変化したのでしょう。

ですから朝廷内では百済を「本国」と呼んでいたのです