三代王権を訪ねて

私は第二王亨進様と共に歩むものです、しかしブログの内容は聖殿教会(サンクチュアリ教会)とは関係ありません、私の私案です。

非武装平和主義

近代に入る以前の世界は国を王や首長が軍隊を持ち国を治めていました

 

20世紀に入ると世界は革命、民主化運動により各国の王は国の統治権、軍の最高司令官位から外され国のシンボル的な存在になりました

 

しかし日本においては平安時代には、天皇が軍隊を捨てた、いや、捨てさせられたのです

 

794年、桓武天皇は都を京都に移しました

 

その当時、大和政権の支配地域は今の東北の南端まででした

 

東北は蝦夷人(と呼ばれていた)が住み、支配していました

 

桓武天皇は東北を平定する軍団だけ残して天皇が指揮する軍団を捨ててしまったのです

 

821年、桓武天皇は武力で東北を平定すると、その軍団も解散させ天皇自ら天皇軍を放棄しました

 

日本の民は兵役が無くなり、喜んだでしょう

 

奈良時代まで天皇が軍隊を指揮していたのに、なぜ、桓武天皇は日本軍(天皇軍)を失ったのか

 

日本列島は周り海に囲まれているので外国勢力の侵略を受けにくいから?

 

イヤイヤそれでも侵略を受ける可能性が0でない以上、防衛準備は必要です

 

そして、国内の内乱を鎮圧するにも天皇軍が必要です

 

1221年、後鳥羽上皇承久の乱

 

1333年、後醍醐天皇建武の新政

 

この二つの争いは天皇上皇が武士団を集め幕府を倒し政権を奪い返そうという争いです

 

天皇家の政権に対して強い意欲があるのがわかります

 

天皇は非武装平和主義者ではありません

 

私の考えですが、桓武天皇が自ら天皇軍を捨てたのではなく、貴族、藤原一族により天皇軍を放棄させられた。です

 

この結論、私のブログを一通り読まれた方には理解できるのではないかと思います

 

要点だけまとめて説明します

 

奈良時代、最後の称徳天皇女性天皇)には子供がいなく称徳天皇は次期、天皇を僧侶の道鏡と考えていました

僧侶、道鏡天皇になれば、天皇の周辺も僧侶になる、そうすると朝廷内から藤原一族は追い払われてしまう

これまで藤原一族は天皇外戚関係を築き天皇に影響を与えてきた、しかし称徳天皇は藤原一族のコントロールを受けず独自行動をとるようになった

藤原一族の存亡の危機です、

藤原一族は道鏡への天皇譲位を阻止し、称徳天皇を病を理由に隔離(その後、死亡、暗殺されたかも)

藤原一族は次期、天皇は自分がコントロール出来る人物を選ぶことにした

そこで、選ばれたのが百済王族の子孫、白壁皇子です、百済王族も百済天皇の復活を熱望していたので、大歓迎です

そこで、藤原一族が百済天皇、復活に百済王族に出した条件があったと思います

藤原一族から百済王族に出された百済天皇復活の条件(私の想像です、全て根拠がありますが長文になるので書きません)

1,韓国との縁を切る

2,新しい天皇の皇后は藤原一族から出す

3,政治は藤原一族が行う

4,近い将来日本軍、天皇軍は廃止する(天皇が軍隊を持てば独自行動をとり、藤原一族が天皇をコントロール出来ないから)

 

こうして藤原一族は天皇を支配したのでしょう