卑弥呼(百済の王女)
昔、先輩祝福家庭の方から聞いた話です
ある日本食口が、お父様に「卑弥呼はどういう人物だったのか?」と伺ったところ
お父様は「卑弥呼は百済の王女だった、その王女は身分の低い男性と恋に落ち、王様に結婚したいと言ったが、王様は許されなかった、しかし、王女はどうしても、その身分の低い男性と結婚したいというので、王様は宝物を二人に与えて、百済から追い出した、二人は日本に渡り、百済の王女は卑弥呼となった」という内容でした
この御言葉から
身分の低い男性ー--天使長
だと推測します
ではWikipediahiに書かれてる卑弥呼を見ますと
「卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女(一族or宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。」
お父様の御言葉を参照しますと
「弟」「ただ一人の男子」は百済王女の恋人の「身分の低い男性」ではないかと思います
卑弥呼が女王として国を治めてた期間は、争いがなく、平和だったと言われています
科学者が古木の年輪を調べたところ、卑弥呼が国を治めていた頃は「温暖な気候で作物も良く採れて、食べ物を奪い合うことなかっただろう」と研究家は言っています
しかし卑弥呼が国を治めていた期間の前後は「気候が寒く作物は不作で、食べ物の奪い合いの争いがあった」と、考えられるそうです
上記の内容から古代史研究家の中には日本神話に出てくる天皇家の先祖である天照(アマテラス)は卑弥呼がモデルになったという人がいます、私もその説に賛成しています
淡路島にいたユダヤ人(ナフタリ族)は女性陰部信仰をしていたことは、前回、話しました
日本神話を書く時、女神を描くのに卑弥呼をモデルに天照大神を創作したのでしょう
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しかし、この両者の神様の創造目的は違います
エバはエデンの園で主体者であるアダムと神様を中心に結婚し子女を産み家庭を作る
アダムと共に神様の願われる地上天国を建設するのが神様の創造目的でした
しかし、エバ国(日本)は堕落したエバを再臨のメシアが復帰しサタンからエバを奪い返す為に神様がエバ国は準備されました
このことを、ハッキリと認識しないとエバ国の真の勝利は難しいです
第2王享進様が韓国、日本を巡回されエバ国の勝利のチャンスがきました
エバは自らの決断で堕落しました
神様が準備された真っ白なドレスを着て、第二王亨進様の祝禱を受けアダム国と祝福を受けましょう
聖書にあるエバ国(日本)の根
韓国のあばら骨、百済王子(豊、豊璋)
天智天皇の正体をお話します。天智天皇が韓国(百済)のあばら骨です
645年、中大兄皇子(天智天皇)が皇極天皇の前で蘇我入鹿を切り殺しました。
(殺した理由は省略します)
その殺害現場にいた古人大兄皇子が自宅に戻って書いた記録書には
「韓人が蘇我入鹿を殺した、悲しい」(現代語訳)と書いています
「韓人」とは韓半島にあった高句麗、百済、新羅の三国を総称した言葉です
蘇我入鹿は今でいう総理大臣のような人物です。
そういう蘇我入鹿を殺し罰を受けず、後に天皇になったのですから、
「韓人、中大兄皇子(天智天皇)」はかなりの高貴な立場だったからです。
当時、大和のいた高貴な「韓人」と言えば、百済皇子、豊(日本名、豊璋)だけです
天智天皇の正体は百済、最後の王、義慈王の息子、豊(日本名、豊璋)です。
韓国(百済)のあばら骨は百済、王子、豊(日本名、豊璋)です。
そして、その後、百済王子、豊(天智天皇)は新羅、唐により滅ぼされた百済を復興する為に倭の大軍を連れて百済に行きますが、新羅、唐連合軍に負けてしまい、百済復興は出来ませんでした
泉涌寺(天皇家の始祖)
古代史研究家のほとんどは神武天皇という個人はいなかったと思っています
そこで天皇の始祖に関して答えをくれる、お寺を紹介します
京都市の南東部にある泉涌寺です。天皇家と関係が深く「御寺」とも言われています
と、いうことは、その一番古い天皇が天皇家の始祖であることが分かります、
その一番古い(位牌)天皇は天智天皇です。天智天皇が天皇家の始祖です。
霊明殿には歴代天皇、天智天皇から昭和天皇までの位牌が置かれていまが、しかし天智天皇の弟である天武天皇と天武系と言われている天皇達の位牌は置かれていません。
そして 天智天皇の父(舒明天皇)そして母(皇極天皇)の位牌も霊明殿には在りません。これは事実です。
私が直接、泉涌寺に行き、泉涌寺のお坊さんから直接、聞いて確認しました。
この事実は泉涌寺の考えでやっているのか?いいえ、ちがいます。
なぜなら皇族(天皇、皇太子、家族)が非公式で泉涌寺、霊明殿に行きお参りしています、(この件で私、個人にもエピソードがあります、機会があれば話します)
天皇、自ら日本神話、古事記に書いてある天智天皇の親子関係、兄弟関係を否定しています。
(これは重要な話なのですが、かなりの長文になりますので、ここでは省略します)
★天皇が京都に来られる時は数日前には京都市内の交通規制を発表されます。
★泉涌寺の霊明殿では天智天皇から昭和天皇まで(天武系天皇は除く)の位牌が置かれています。そして天智天皇の以前の天皇の位牌もありません。
★天皇が京都に来られる時は必ず関係機関に報告があります、しかし天皇が泉涌寺に行かれる時(先祖参り)は関係機関に報告は無く、京都駅から泉涌寺までの交通規制は事前発表はなく突然、交通規制が行われます。
光仁天皇、そこまでして百済の女性を⁉
2002年韓日ワールドカップ大会での明仁天皇のメッセージの一部
「私自身に関しては、桓武天皇の生母(高野新笠)が百済の武寧(ムリョン)王の子孫だということが続日本紀に記録されており、韓国との縁を感じている」
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桓武天皇の父は光仁天皇、母は高野新笠(百済、武寧王の子孫)です
光仁天皇には皇后(正妻)、井上内親王がいて二人の間には息子の次期天皇(皇太子)である他戸親王がいました
(光仁天皇が,どのように天皇になった説明が必要なのですが、省略します)
高野新笠は光仁天皇の側室(めかけ)です、桓武天皇は妾(めかけ)の子なのです
では、なぜ他戸親王が天皇になれず、腹違いの兄弟が天皇(桓武天皇)になったのか
光仁天皇が天皇に即位し、しばらくして、正妻の井上内親王と息子の他戸親王の二人が「光仁天皇を呪い殺そうとした」という罪で二人は追放、幽閉(牢屋生活のようなもの)されます
これは濡れ衣で井上内親王、他戸親王、母子は陥れてしまったのです
二人が同じ日に死んだ、ということは、同じ日に「殺された」に間違いありません
それを夫であり父親である光仁天皇も殺しを許したのでしょう
では何故、井上内親王、他戸親王、母子は殺されなければならなかったのか
井上内親王の先祖が百済とは縁のない、いや百済に敵対してたと思われる、天武天皇だからです(この説明はかなり長くなりますので省略します)
光仁天皇(百済系天皇)、本人よりも光仁天皇の周りにいた百済人達の意思で高野新笠(百済、武寧王の子孫)との間にできた、息子を天皇(桓武天皇)にしたかったのでしょう
井上内親王は今でも京都の御霊神社に祀られています
(御霊神社とは罪なき者が殺され、その恨みの魂がこの世に祟らないように慰め祀る神社です)
武烈天皇、あなたは誰?
この日本書紀と古事記、両方に第25代天皇、武烈天皇が登場します
古事記に出てる武烈天皇の記事は25代、武烈天皇は、いつ生まれ、いつ死んだか、簡単に、しか載っていません
一方、日本書紀に登場する武烈天皇はどういう人物であったか詳しく書かれています
その中から武烈天皇の異常な行為を紹介します
3,人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落として殺して面白がった
4,人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ
5,人を木に登らせて、弓で射落として笑った
6,女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して、面前で交尾を見させた。女たちの性器を調べ、潤っているもの(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった
そして天皇家の正史(正式な歴史書)は日本書紀で、古事記は読まないらしいです
ですから歴代の天皇は武烈天皇の異常な行為を知っていたのです、そして悲しんだのでしょうか?笑ったのでしょうか?
660年、百済は新羅、唐連合軍に滅ぼされました、その時の新羅王は武烈王です(日本では奈良時代より50年前の出来事)
日本書紀が書かれたのは奈良時代の初めの頃ですから、日本書紀を書いた著者は、百済を滅ぼした新羅、武烈王を知っています
ですので新羅王、武烈王を日本書紀には25代、武烈天皇と置き換え、ののしったのではないかと思います
お父様の御言葉に「日本が韓国を攻めるのは韓国を恨む思いがあるからだ」という内容の話を聞いたことがあります。誰か正式なお父様のみ言葉、知っておられる方がおられたら教えてください
百済人の新羅(韓半島)に対する恨みが日本にあるのではないかと思います。百済人の恨みを解怨しなければなりません
百済をクダラと呼びますね
奈良県の奈良(なら)の語源は韓国語の国(나라,ナラ)から来ていると、日本のほとんどの古代史研究家、言語学者が認めています
日本語の「本家」を韓国語でクンジベと言います、クンは「大きい」、ジベは「家」です
では日本語の「本国」になりましたら韓国語では国は「ナラ」ですので「本国」を韓国語では「大きな国」クンナラになります。
時代が流れて、クンナラ⇒クダラと音変化したのでしょう。
ですから朝廷内では百済を「本国」と呼んでいたのです
ところが新羅を日本語で、そのまま読みましたら「シンラ」になります、
「シラギ」の「ギ」が付いているのが不自然です
実は韓国語で相手をバカにする言葉の最後に「ギ」が付くことがあります
例えば、「よわむし」を「コッチェンギ」
「欲張り」を「ヨクシㇺチェンギ」
百済はクダラ(本国)と呼び。新羅はシラギ(新羅の奴)と呼んでいたのです
日本の朝廷は百済人です