三代王権を訪ねて

私は第二王亨進様と共に歩むものです、しかしブログの内容は聖殿教会(サンクチュアリ教会)とは関係ありません、私の私案です。

光仁天皇、そこまでして百済の女性を⁉

2002年韓日ワールドカップ大会での明仁天皇のメッセージの一部

「私自身に関しては、桓武天皇の生母(高野新笠百済の武寧(ムリョン)王の子孫だということが続日本紀に記録されており、韓国との縁を感じている」

 

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第50代、桓武天皇は都を京都に移した天皇です

 

桓武天皇の父は光仁天皇、母は高野新笠百済武寧王の子孫)です

 

光仁天皇には皇后(正妻)、井上内親王がいて二人の間には息子の次期天皇(皇太子)である他戸親王がいました

(光仁天皇が,どのように天皇になった説明が必要なのですが、省略します)

 

高野新笠光仁天皇の側室(めかけ)です、桓武天皇は妾(めかけ)の子なのです

 

では、なぜ他戸親王天皇になれず、腹違いの兄弟が天皇桓武天皇)になったのか

 

光仁天皇天皇に即位し、しばらくして、正妻の井上内親王と息子の他戸親王の二人が「光仁天皇を呪い殺そうとした」という罪で二人は追放、幽閉(牢屋生活のようなもの)されます

 

これは濡れ衣で井上内親王他戸親王、母子は陥れてしまったのです

 

その後、井上内親王他戸親王、母子は同じ日に死にます

 

二人が同じ日に死んだ、ということは、同じ日に「殺された」に間違いありません

 

それを夫であり父親である光仁天皇も殺しを許したのでしょう

 

では何故、井上内親王他戸親王、母子は殺されなければならなかったのか

 

井上内親王の先祖が百済とは縁のない、いや百済に敵対してたと思われる、天武天皇だからです(この説明はかなり長くなりますので省略します)

 

光仁天皇百済天皇)、本人よりも光仁天皇の周りにいた百済人達の意思で高野新笠百済武寧王の子孫)との間にできた、息子を天皇桓武天皇)にしたかったのでしょう

 

純粋、百済天皇桓武天皇)を作りたかったのでしょう

 

井上内親王は今でも京都の御霊神社に祀られています

(御霊神社とは罪なき者が殺され、その恨みの魂がこの世に祟らないように慰め祀る神社です)

 

光仁天皇がなぜ、百済系。天皇なのかは後ほど説明します